優しき博士の処方箋

 

三城俊一

 

 

 

「こちらが、ジャック・ケヴォーキアン先生よ」

 

 ナンシーに紹介された老人が、無表情に軽く会釈をした。細長い体型に、ぎょろりとした大きな眼。冷徹な合理主義のもと行動する生粋の学者、といった印象だった。

 

 ケヴォーキアン。聞き慣れない姓だが、どこの血を引いているのだろう。

 

「先生は、アルメニア移民の子孫で、ミシガン大学のご出身なのよ」

 

 ナンシーは私の疑問を見透かしたように続けた。流石は私の姉、最後の私の血縁者だ。もはや言葉を発することもできない私の思考を、極めて高い精度で読み取ってくれる。一方で、ナンシーは、いまだに表情筋を動かさないでいるケヴォーキアン博士の思考を読み取ることはできるのだろうか。

 

 ナンシーは博士の方を向き、説明を始めた。

 

「お手紙で書いたとおり、弟は筋萎縮性側索硬化症―――ASLを患っています。ご覧のように今は寝たきりの状態になり、まぶたと眼球の動きだけでかろうじて意思疎通が可能です。もはやスポーツやドライブに興じることもできなくなりました。子供の頃から活動的な人だったので、私はもう見ていられなくて……」

 

「弟さんは」

 

 博士は、姉の言葉を遮るようにして初めて口を開いた。乾いた無機質な声。

 

「本当に明確な意志をもって、『それ』を望んでいるのですか?私が最重要視するのは、ご本人の強い意志です」

 

「ええ、何回も確認はしました。そうでしょう、ウォルター?」

 

 ナンシーが私のほうを向く。私は、一度だけ瞬きをした。私と姉の間で取り決められている、“YES”のサインだった。

 

「ホイットマンさん、もうご存知かもしれませんが、私の立場を私の口からお伝えしておきましょう」

 

 ケヴォーキアン博士は、初めて私の目を正面から見つめ、話し始めた。度の強い眼鏡の奥の目からは、感情らしきものを見出すのは難しかった。

 

「少なくとも私個人の見解としては―――治癒の見込みがないまま、肉体的・精神的苦痛を患者に強いるのは、正義に反するものと考えます。耐え難い肉体的、もしくは精神的苦痛が継続していること。治癒の見込みがないこと。本人と家族が明確な意志をもって決断していること―――この条件をすべて満たしていれば、私は『処方箋』を出します」

 

 私は、この呪わしい病にかかってからの生活を思い出す。全身の筋肉が少しずつ麻痺していく難病。今では手も足も全く動かない。ベッドから起き上がることもできない。食事も排泄も自力ではできない。できることは、眼球周辺をわずかに動かして意思を伝えることだけ。高度なコミュニケーションをとることは不可能だ。

 

「お姉さまから、病状などについてのお話は伺っております。ホイットマンさん。あなたは、『安楽死』を望み、私の『処置』に同意しますか?」

 

 生きるべきか、死ぬべきか―――私の中では、そのハムレット的問いへの答えは出ている。姉もよくわかっているはずだ。だからこそ今、目の前に「安楽死を処方する医師」ケヴォーキアン博士はいるのだ。しかし―――私は結論を急がなかった。死が怖いわけではない。神がいかに残酷な運命を私に課したにしろ、自分の人生の幕引きは、それなりに信頼できる人物に委ねたかったのだ。目の前にいる老博士が、どれだけ信頼に足る人物かを見極めてから決断しても遅くはあるまい。

 

「ケヴォーキアン先生、私からも話はしてありますが、先生自身の口から説明をしていただいた方がいいかと思います」

 

 ナンシーは私の考えを察したようだった。

 

「お姉さまのおっしゃる通りですね。確かに、私自身の言葉で説明した上で、決断していただくのが筋でしょう」

 

 博士の口調は淡々としていた。患者を安心させようとする作り笑いもなければ、末期患者を目の前にした厳粛さもなかった。ただ、技術者が機械の説明をするかのように無感情に語り始めた。

 

「私の『治療』は私自身が開発した機械によって行われます。一酸化炭素の入ったシリンダに接続されたマスクをして、患者自らの手でバルブを開けることによって最低限の苦痛で死に至ります。既に説明したように、あなたは、この機械を使用する条件を備えており、あとはあなたの同意を得るのみです。ただし、厳密にはもう一つ条件があります」

 

「その条件とは何でしょう?」

 

 ナンシーが問う。

 

「ご本人とお姉さまが、安楽死に同意した証拠として、問診および安楽死の模様を簡単に録画させて頂きます。私の仕事は、残念ながら万人の理解を得られるものではありません。自殺幇助の罪で告発されることもあります。そうした場合、安楽死を望む末期患者の様子を陪審員に見せると、大抵の場合情状酌量で無罪となります。このことはよろしいでしょうか」

 

 その程度のことなら構うまい。私は、こちらを向いた姉に対し、一度だけ瞬きをする。

 

「あとは、ホイットマンさんのご決断次第です。私は、しばらくこの街に逗留しますので、急がせるつもりはありません。悔いの無いよう、確固たる意思を固められることを望みます」

 

「よろしくお願いいたします、先生。あなたは私たちにとって最後のよすが、神様にも等しい存在なのです」

 

 その日の会見はこれをもって切り上げられた。ナンシーはケヴォーキアン博士を見送りに部屋を出て行った。「神様」―――彼女の発したこの言葉だけが、私の心の中に引っかかるように残っていた。

 

 

 

 

 深夜の眠れない時間、私は一人回想にふけっていた。幼い頃、両親に連れられて行った教会でのことだ。

 

「主イエスは、人々の罪をかぶって十字架にかけられ、殺されました。自らが犠牲になることによって、人々を救おうとしたのです。それゆえ、我々は主イエスを神として、お祈りを捧げるのです」

 

 子供向けに易しく噛み砕かれた牧師の説明を、当時の私がどれほど理解できていたかは定かではないが、この言葉だけは印象に残っている。イエスは他者のために残酷な刑罰を受け、それゆえに神様として崇められる。それは尊いことなのだろう。

 

 だが、今の私には、神様に祈りを捧げようという気持ちは起きない。なぜこの私が、若くして体の自由を少しずつ奪われるという忌まわしい病に苦しまねばならないのか。本当に、神はいるのか。いたところで、なんの救いをもたらしてくれるのか。

 

 私は、ナンシーの発した「神様」という言葉をもう一度反芻した。結局、私にとって意味のない言葉である、というのが結論だ。神が当てにならないならば―――自分の意思で苦痛をなくすのが最良の選択だろう。ここはひとつ、あの老博士を信頼することにしよう。深夜の暗闇の中で、私は腹を決めた。

 

 

 

 

 動けなくなった代償として、聴覚や嗅覚が鋭くなったように思う。ケヴォーキアン博士が部屋の隅にセットしたビデオカメラの動作する音が聞こえてくる。

 

「ホイットマンさん、あなたは私の安楽死の処方を受ける基準を満たし、私が提示した条件にも同意されました。これより、あなたとご家族の同意に基づいた『処置』を行います。よろしいですね?」

 

 ナンシーが緊張した面持ちで頷いた。私も一度だけ瞬きを返す。姉としては、やはり家族の死は荘厳な空気の中で看取りたいようだ。だが、私としては一刻も早く苦痛から逃れたかった。「死の装置」を慣れた手つきで準備する博士の手の動きすら、全てが緩慢に感じられるほどだった。「死の装置」は、ガラス製シリンダに、マスクがチューブを通して繋がっているという見た目をしていた。いかにもお手製といった風情を漂わせた、失礼ながら子供の工作のような代物。しかし、この装置こそが、私を此岸の苦しみから解放してくれる救いとなるのだった。

 

「このレバーを下げることで、バルブは開き、装置は作動します。末期患者の弱い力でも動かせるようになっていますが」

 

 博士は言葉を切った。

 

「ホイットマンさんはすでに手を動かすこともできないほど病状が進行しているため、私が代わりに作動させます」

 

 その時だった―――永遠の眠りを前にして、これ以上なく安定していた私の胸中にざわめきが生じたのは。

 

 今、博士はレバーに手をかけ、「死の装置」を作動させようとしている。ビデオカメラが作動しているその前で。

 

 以前、博士は言った―――末期患者は自らの手で「死の装置」を作動させる。博士は時に自殺幇助で告発されることがあると言っていたが、それはあくまで、患者が装置を作動させる形をとっていたから、殺人ではなく自殺幇助という罪名だったのだ。殺人よりも軽い罪であるため、博士は患者の様子を記録したビデオによって陪審員の同情を集め、情状酌量を勝ち取ることができた。

 

 だが、今回は事情が違う。博士は自分の手で装置を作動させた。これは―――殺人として告訴される可能性を孕む行為ではないか。これが明るみに出たら、収監は免れない。なぜ、その模様を記録するのか。

 

 私の視線を感じたのかどうかは分からないが、ケヴォーキアン博士は私に向き直り、口を開いた。

 

「私は、自分の信じる正義を信じて行動しています。私は誰に対しても恥ずべき行いをしていません。だからこそ、万人が私の行いを検証できるよう、記録をとっているのです」

 

 博士、なぜこんな馬鹿げたことをするのですか。後生です、今すぐにでも、そのビデオテープを焼き捨ててください。私などのために獄に繋がれる必要はないのです。

 

 私の声にならない懇願を制するかのように、博士は言葉を続けた。

 

「私の行為は、全米に議論を巻き起こすでしょう。それで良いのです。私は、自分の正義が勝利することを確信しています。そのためならば、私の名誉や身体的自由など犠牲にしても構いません」

 

 そうか。博士は、私を含むすべての末期患者を救うために、自ら犠牲になる覚悟を持っていたのか。

 

 かつて、牧師は幼い私に言った。主イエスは、自ら犠牲になることによって人々を救い、ゆえに神として崇められる。ならば、博士は私にとっての―――

 

 薄れゆく意識の中で、私は、届くはずのない声を博士に向かって発した。

 

「神様―――」

 

 博士の目はとても優しそうだった。

 

 

 

 

「ジャック・ケヴォーキアン氏死去 一三〇人の末期患者を安楽死」(二〇一一年六月配信)

 

 ……現地メディアの報道によると、六月三日、元医師で安楽死啓蒙運動家であるジャック・ケヴォーキアン氏が、ミシガン州の病院で死去した。八十三歳だった。同氏は一九八〇年代から安楽死の研究を進め、自ら開発した装置で一三〇人もの末期患者の自殺を幇助した。一九九八年、末期のASL患者を死亡させた事件で殺人罪に問われ、収監された……