ハルビンの銃弾

 

~異聞・伊藤博文暗殺事件

 

三城俊一

 

  

 

1.

 

「見たまえ。雪が降っとるよ」

 

 伊藤に話しかけられて、室田(むろた)義文(よしあや)は窓の外を見やった。満州の山々を背景に、雪がちらほらと舞いはじめていた。しかし、伊藤らを乗せた特別列車は意に介す様子も無く、ハルビンに向かって、一路北へ走っていた。

 

「まだ十月だと言うのに」

 

「満州は亜寒帯ですから。先ほど寒暖計を見たら零下五度でした。しかし、真冬でないだけましです」

 

 室田は、ソファに腰掛けている伊藤の方に向き直って答えた。ここ談話室も含めて、特別列車には暖房がついている。とはいえ、老体には、この寒さは身にしみることだろう。

 

「今回の遊説旅行が終わったら、休暇を取って、温泉にでもゆっくりつかられたらどうでしょう」

 

「有難う。だが、これは大日本帝国の将来がかかった重要な任務じゃからな。終わってからのことは考えんでおこう。会談を成功させることにだけ、全精力をつぎ込みたい」

 

 室田はその強い調子に少し面食らい、続いて伊藤の並々ならぬ決意を改めて胸に刻み込んだ。明治の元勲、伊藤博文は既に六十八歳であった。

 

 

 

 明治三十七年(一九〇四)に勃発した日露戦争は、東アジアの勢力図を大きく塗り替えることになった。満州を勢力下に置き、更なる南下を目指すロシアと、列強の仲間入りを目指す日本とが激突したのである。日本は多大な犠牲を払いながらも勝利。南満州鉄道の権利をロシアから受け継ぎ、国策会社南満州鉄道(満鉄)を発足させた。また、翌年日韓協約により韓国を保護国とし、韓国統監府を置く。

 

強大な清帝国の面影は既に無く、欧米列強が極東に植民地化の魔の手を伸ばしつつある。日本側には、韓国が列強の手に落ちれば、次は間違いなく自分たちの番になるという危機感があった。日本にしてみれば、自らの身を守るためには、清の属国状態だった韓国を無理やりにでも近代化し、独り立ちした国家にする必要があった。

 

弱肉強食の時代の、悲しい帰結であった。

 

 

 

ともあれ、日露戦争後、極東には日本とロシアという二大強国が立ち並ぶことになる。しかし、戦役によって多くの人命、資源を失った両国では、平和と安定を熱望する声が主流となっていた。日露は急速に歩み寄りを始めた。

 

そんな状況下において、日露友好を強化し、かつ日本の満州における利権を守るという大役を果たせる人材は、初代内閣総理大臣、前韓国統監、そして現枢密院議長という政界の実力者であり、対外的にも宥和的外交を唱える伊藤をおいて他に無かった。

 

 

 

 伊藤博文がロシア支配下の満州に遊説し、ロシア大蔵大臣ココフツェフとの非公式会談に臨むまでには、こうした事情があったのである。

 

 

 

出発前から、伊藤は腹心の部下である室田に対し、

 

「昔は命が惜しかったが、老いた今となってはもはや自分の命などどうでもいい。自分は日本、いやアジア全域の平和のために、この会談に命をかける」

 

というようなことを繰り返し語っていた。室田は元々水戸の素浪人で、伊藤に見出されて外交官となり、政財界で活躍する道を開くことになった人物である。このため彼は人生の恩人として伊藤に心酔していた。だが、老いた伊藤のこの言葉に更なる感銘を受け、どこまでもついて行く決意を固めたものだった。

 

 しかし、後に室田はこの言葉によって、余りにも皮肉な思いを味わうことになる。

 

もちろん、伊藤にしてみればこの会談にかけた意気込みを比喩的に表現したに過ぎなかったであろうが・・・・・・

 

とにかく、この時点においては、世界中を震撼させる事件をまもなく目の当たりにしようとは、当然の事ながら室田には知る由も無かった。

 

 

 

舞台は特別列車の中に戻る。

 

「今回に関して言えば、後藤男爵にはつくづく感謝せねばなりませんね」

 

 男爵・後藤新平逓信大臣は、伊藤の満州行きの考えに共鳴し、ココフツェフへ会談を打診する役まで買って出ていた。

 

「もっとも奴には裏がありそうだが」

 

 伊藤の冷たい言い方に室田は苦笑した。後藤は先代の満鉄総裁で、満州において相当な利潤を得ている。自らの利権がかかっているのだから尽力するのも当然だろう、とでも言いたげだ。

 

 

 

目的地は近い。朝食を終えた伊藤の随行員たちが、続々と列車内の談話室に集まってきた。森秘書官、満鉄の中村総裁、田中理事・・・・・・それまで二人きりだった談話室はいっぺんに賑やかになった。

 

その中に混じっていた(かわ)上俊彦(かみとしつね)・ハルビン総領事が一同に告げる。

 

「あと数分で、ハルビン駅に到着するそうです」

 

 

 

明治四十二年(一九〇九)十月二六日午前九時―――特別列車は、軋んだ音を立てて停車した。

 

 

 

 

「さて―――どこまでお話ししたかな」

 

「伊藤公がハルビンで会談に臨まれる直前までです」

 

「失敬―――年のせいで最近記憶力が落ちておる様じゃ」

 

 そんなことはない、と私は思った。室田義文、当年九十一歳。そんな老人が、今から三十年―――正確には二十八年前の出来事について、かくも明瞭に語ってみせていることに、驚きを禁じえない。

 

 私の帳面(ノート)は、半分近くがメモ書きで埋まってしまっている。

 

 

 

 二週間ほど前、私の勤める出版社で、ある企画が持ち上がった。昭和も十年を過ぎ、明治維新をじかに見たものは大半が世を去っている。彼らの証言を、今のうちに後世に残しておきたい、というのだ。その「語り部」をする適役として、室田義文翁の名が挙がった。

 

明治の外交官にして、政治家。元貴族院議員。側近として使えた伊藤博文ら近代日本の立役者たちを身近に見てきた男である。

 

 勝手な申し出に、老人は、快く自叙伝出版を了承した。

 

 

 

 その室田の話が、実に興味深いのである。

 

座卓をはさんで向かい合うと、まずその威厳に圧倒される。枯れ木のように痩せてはいるが、背筋も真っ直ぐで、まさに「サムライの生き残り」と言う感じがする。しかし、語り口は軽妙で、しかも記憶も確かだ。それでも高齢ゆえ、適宜休憩を取りつつ話を聞いている。

 

その休憩も、今日は幾度取ったであろうか。時間が経つのを忘れてしまうとはこのことだ。

 

老人が湯飲みを手にし、口を湿らせる。話を再開させる気になったらしい。私は威儀を正し、鉛筆を構えた。

 

「そもそもその時の満州行きは、表向きは私的旅行ということで、準備も極秘じゃった。公式決定したのが九月末じゃが、出発ぎりぎりまで公表されなかった。確か東京朝日新聞に満州行きの記事が載ったのは、十月八日頃で・・・・・・」

 

「―――はあ」

 

 背景についてこれほど詳細に説明されても―――

 

「早く事件について聞きたいんじゃろ。まあ待ちなさい。後で意味を持ってくるから。ま、とりあえず順番に話していこうかね」

 

 障子を通して、日が傾いてきたのが分かった。室田邸での時間の流れ方は、一体どうなっているのだろう。

 

 昭和十二年(一九三七)十月の、とある晴天の日のことである。

 

 

 

2.

 

「そろそろ下車しましょうか」

 

 列車が完全に止まったのを確認してから、室田が伊藤を促した。

 

「そうするか。しかし、随分ものものしい警備じゃのう」

 

 窓からは、駅のプラットホームにずらりと立ち並ぶロシア兵の姿が見えている。日本の要人を迎えるに当たって、ロシア側も数百人単位での厳戒態勢を敷いている様だ。

 

 伊藤が立ち上がりかけたその時、唐突に談話室の扉が開き、「ようこそ、ハルビンへ!」という意味のロシア語が室内に響き渡った。

 

 ロシア大蔵大臣、ウラディーミル・ニコラエヴィッチ・ココフツェフ伯爵の登場である。数年後には首相を務めることになるロシア政界の大物だ。身長百八十センチを越す巨体に、跳ね上がった口髭を生やした当年五十六歳の紳士は、両手を大きく広げて歓迎の意を示している。熊そっくりだ、と室田はひそかに思った。

 

 ロシア語が堪能な川上総領事が、すかさず伊藤とココフツェフの間に立った。川上の通訳を通した会話が始まる。

 

「閣下の到着を心から祝福します。満州を視察中、偶然日本帝国の元勲と居合わせ、会談する機会が得られたのは実に光栄なことです」

 

とココフツェフが挨拶すれば、伊藤も負けずに、

 

「日露間の当面の問題に決着をつけ、ひいては日露の友好を発展させることができるのは、閣下をおいて他に無いと考えておりました。そんな矢先、閣下の満州行きを聞きつけて駆けつけてきた次第です」

 

 慇懃丁寧なやり取りがなされた後、伊藤は随員の紹介に移った。その一人一人と、いちいちこのような会話を繰り返していくので、室田はいささか辟易した。

 

 ここでココフツェフがある提案をした。

 

「ここに整列している儀仗兵は、閣下の警護ために特別に編成されました。そこで、閣下に閲兵していただけたら、彼らは非常なる光栄と感じる事と思いますが―――」

 

「閲兵、ですか・・・・・・」

 

 伊藤は愛想笑いを続けているが、乗り気ではなさそうだ。

 

「今回の会談は非公式なものですから、礼服の用意が無いのです」

 

「平服でも構いませんよ。一向に差し支えありません」

 

 食い下がるココフツェフに、ならば、と伊藤は承諾した。

 

 

 

 一同は、プラットホームに降り立った。軍楽隊が一斉に喇叭を吹き鳴らし、歓迎の曲を奏で始めた。

 

 居並ぶ威丈夫な儀仗兵たちを前に、伊藤とココフツェフがやり取りを交わす。

 

「では、お先にどうぞ」

 

「いや、閣下がお先に」

 

「ならば」伊藤がにこりと笑う。

 

「二人一緒に」

 

 二人は並んで閲兵を始めた。室田ら随員も後に続く。長身のココフツェフと小柄な伊藤が並んで歩く姿は滑稽だった。

 

 閲兵は数分で終わり、伊藤らは踵を返した。室田が懐中時計を見ると、午前九時三十分を回ったところであった。

 

 伊藤はといえば、儀仗兵らの方向に向かって立ち、ロシア側の来賓と談笑している。

 

 

 

 その時、室田は不審な物音を耳にした。「パチパチ」とでもいうような、何かが弾けた感じの音だった。

 

 駅には在住の日本人らが大勢歓迎に訪れ、遠巻きに伊藤らを見守っていた。そうした人々が、歓迎の爆竹でも鳴らしたのか?

 

 ―――その刹那。

 

乾いた破裂音が、連続して室田の鼓膜を貫いた。今度は、明らかに銃声だった。

 

 室田は反射的に音の方向に振り返った。

 

 紺色の服を着た小柄な男が、ロシア兵の間からかがむようにして半身を出し、右手を前に突き出していた。その右手には、しっかりとピストルが握られている。

 

 室田は一瞬、しかし確かに、その男と目が合った。

 

―――伊藤さんは無事か?

 

はっとした室田は、三メートルほど向こうにいた伊藤の方を見やった。

 

伊藤の体が支えを失ったように崩れ、ココフツェフが慌てて抱きかかえようとしていた。伊藤の顔面は蒼白だった。室田はすぐさま伊藤のもとに駆け寄った。

 

 

 

伊藤さんが撃たれた。あってはならないことが起きてしまった。一刻も早く手当てを―――

 

「誰か、手を貸せ!」

 

 室田は夢中で叫んだ。

 

 

 

 ピストルを撃った小男は、ロシア兵にあっという間に取り押さえられていた。

 

「ウラ、カーリヤ!」

 

 男は、屈強な兵隊に組み敷かれたまま、分厚い雲に覆われた空に向かって絶叫した。

 

 しかし、その声は突然の凶事に慌てふためく人々の喧騒に、まもなくかき消されてしまった。

 

 

 

 

「ウラ、カーリヤ?」

 

「ロシア語で、韓国万歳、という意味じゃ」

 

「なるほど。で、その男がかの安重根だったのですね。日韓併合を推進する伊藤公を憎んでの犯行だった訳ですね?」

 

「それは違うよ、君」

 

 ―――え?

 

 私は思わず室田老人の顔を見つめた。穏やかだった表情が、急に険しくなっていた。

 

「君は事前に調べているだろうから大丈夫と思うとったが―――そうか、予想以上に誤解が広がっとるな」

 

 この老人は何を言っているのだ?

 

「伊藤さんは日韓併合には反対しとった。韓国が近代化するまで一時日本が保護国化する、という考えじゃった。伊藤さんが死ぬ年の四月には、日韓併合は閣議決定されとったが、それでもずっと抵抗し続けていた。『日韓が並び立ち、ともに共同して進んでいくことにこそ、東洋平和の道がある』と演説で語ったとおりに」

 

「そうすると―――」

 

「むしろ伊藤さんの死のせいで併合反対派がいなくなり、併合を早めたんじゃよ。まあ併合を推進する伊藤さんを、韓国人の安重根が殺した、としたほうが分かりやすいから、誤解されたまま広がったんじゃろ」

 

「それでは安重根は、…単なる愚か者じゃないですか!」

 

「まあ待ちなさい。この事件は、君が考えとるほど単純なものじゃあない。むしろ、限りなく奥が深いんじゃよ。底なしの沼のように」

 

 室田は淡々と、話し続ける。私は口をきけないまま、話に没頭していった―――

 

 

 

3.

 

 貴賓室のドアが開くと同時に、室田は小山善(こやま ただし)医師に声をかけた。

 

「小山君―――」

 

 部屋から姿を現した小山は、厳しい表情のまま首を横に振った。室田は、やはりか、と思った。 

 

負傷した伊藤は、特別列車に運び込まれ、随行の小山医師の応急処置を受けた。しかし、彼には手の施しようも無かった。

 

「どうにも、ならんのかね」

 

 答えは判りきっていたが、それでも室田は訊かずにはいられなかった。

 

「よろしいですか、老公は右肩の後ろに二発、脇腹に一発弾を受けておられます。うち、肩に受けた弾は肺臓にまで達しておりました」

 

「では―――致命傷か」

 

 若い頃、動乱の時代を過ごし、戊辰戦争で負傷した経験もある室田は、経験上肺に弾を受けると絶望的であることを知っていた。

 

「お入りください。意識のあるうちに―――」

 

 

 

 伊藤は、包帯で右腕と胴体をぐるぐる巻きにされ、掛布団の代わりにガウンを掛けられた痛ましい状態で横たわっていた。

 

 時折、苦しげに呻く。ほんの二十分前まで、あれほど血色の良かった顔は、もはや血の気をほとんど失っていた。

 

「小山君。気付けに、ブランデーでも……」

 

 室田は、小山に渡されたブランデーのグラスを、伊藤の口に持っていった。一口飲むと、意識が少し回復したようだ。伊藤が弱弱しく首を挙げた。

 

「他に、撃たれた者は?」

 

 伊藤の問いに室田が答える。

 

「川上、田中、森が撃たれましたが、命に別状はないそうです」

 

「犯人は?」

 

「捕縛されました。韓国人の模様です」

 

「そうか―――馬鹿な奴じゃ」

 

 伊藤が吐き捨てる。これが、最後の言葉となった。

 

 

 

室田が再びブランデーを伊藤の口に注いだが、もはや嚥下する力も無く、こぼれたブランデーが白いひげを汚すばかりだった。

 

 午前十時。襲撃されてからわずかに三十分。

 

 伊藤博文は絶命した。

 

 

 

「衷心より、深く同情いたします。これは―――ロシア側の失態です。ロシア当局は、事件解決に精一杯努力することを約束します」

 

 伊藤の死を知らされたココフツェフは、沈痛な面持ちで言った。彼も相当の衝撃を受けた模様だ。ロシア側の警備に手落ちがあったと非難を受けるのは間違い無いだろう。室田は、ひそかにココフツェフに同情した。

 

「ハルビン市内の葬儀屋に、棺と花輪を手配させます」

 

「閣下の心配りに、心より感謝します」

 

 

 

 午前十一時四十分。軍楽隊の葬送行進曲に送られて、伊藤の棺を乗せた特別列車はハルビン駅を発った。 

 

 雪は、既にやんでいた。

 

 恩人伊藤の命日となったこの日は、奇しくも室田義文の六十三歳の誕生日であった。・・・・・・

 

 

 

 

「おかしいとは思わんかね?」

 

「え―――どこが、ですか?」

 

「銃弾じゃよ。伊藤さんは安重根に、水平ないしは斜め下から撃たれたはずじゃ。なのに―――」

 

 伊藤博文は儀仗兵の方向に立っており、安重根は儀仗兵の間から撃った。ところが、致命傷は、斜め後ろからの傷だった。ということは―――

 

「他にもおかしな点がある。伊藤さんの他に、三人の随員が重傷を負った。幸いわしは手のかすり傷ですんだが、服を後で調べたら銃弾の跡がいくつもあった。満鉄総裁の中村さんも、無傷じゃったが服に弾の跡があったそうだ―――」

 

 室田老人は、紙と万年筆を取り出して、随員たちの名前を書き出した。

 

「この森さんと言う人は、漢詩人としても有名でしたね?」

 

「その通り。槐南と号し、天才の誉れ高かったが―――早くに亡くなったのはこの時の傷が元だそうじゃ。惜しいことよ」

 

 話しながら、老人は表を作っていく。

 

「見たまえ」

 

 

 

 伊藤博文 腹部と肩に銃弾を受け死亡。受けた弾・・・三発

 

 川上俊彦 右腕に重傷。 一発。

 

 (もり)(たい)二郎(じろう) 左腕に重傷。 一発。

 

 田中清次郎 左足に重傷。 一発。(室田か中村の流れ弾?)

 

 中村(なかむら)(よし)(こと) 服に弾痕。 二発。(一発で二ケ所の可能性あり)

 

 室田義文 服に弾痕。 五発。(右に同じ)

 

 

 

「計十三発。流れ弾の可能性を考慮すれば、大体八、九発ほど発射された計算になる。ところが、安重根のピストルは、七連発で、一個弾が残っとった。つまり―――」

 

 私は老人の話に圧倒されていた。言葉が何も出てこない。

 

安重根の他に、撃った人間がいたんじゃよ、君」

 

 

 

 二人きりの客間を、沈黙が支配した。火鉢の炭が燃える音さえも聞こえそうだった。

 

「伊藤さんを殺した三発の銃弾は、斜め上から体に入っていったそうじゃ。小柄な安重根が、かがんだ姿勢で撃ったものじゃあ無い。そして、ハルビン駅で上から伊藤さんを狙えるのは、駅舎の二階しかない。これで、安重根が狙撃する直前の不自然な破裂音も説明がつく。伊藤さんは、一瞬だけ早く狙撃されたんじゃ」

 

「・・・・・・それなら、もう一人の狙撃者とは一体?」

 

 老人は答えずに、傍らの分厚い資料の束を開いて、私に示した。

 

「当時の捜査および裁判の資料じゃ。長らく非公開じゃったが、最近になってようやく公開されたのを、写させてもらった」

 

 何と言う執念だろう・・・・・・

 

 室田老人は、当時からずっと伊藤の死に疑問を抱き続けてきたのだろう。今日まで、事件について出来得る限り資料を集め、ひたすら考えに考え抜いて来たに違いない。だからこそ、あれほど詳細に語ることができるのだろう。二十八年の年月を経た今でも。

 

 

 

 物語は、捜査の段階へ移る―――

 

 

 

4.

 

 ハルビンから南南西におよそ九〇〇キロ、遼東半島の先端部に位置する旅順は、かつてはロシアの軍港として戦略上の要衝を占めた都市である。日露戦争後、遼東半島は日本の租借地となり、旅順も日本の管理下に置かれることになった。そこに、租借地を統治する目的で置かれたのが、関東都督府である。

 

 この関東都督府が、にわかに騒然とし始めている。先日、ハルビンで起こった伊藤博文暗殺事件の解決は、ここ関東都督府の高等法院に持ち込まれることになったからだ。

 

 

 

 今も、検察官・溝淵(みぞぶち)孝雄(たかお)が、朝一番に高等法院長室に呼び出され、訓示を受けているところであった。

 

 

 

「今度の事件は、厄介なものになりそうだ」

 

 そんなことは言われなくても分かっている、と溝淵は思ったが、相手は平石(ひらいし)氏人(うじひと)・関東都督府高等法院長である。口に出すのはやめた。

 

 

 

伊藤の非業の死を受け、日本の司法界もいちはやく動き出したが、いきなり出鼻をくじかれた。警察権・裁判権の不在である。

 

事件の起きたハルビンは清国領だが、ロシアが租借している。ところが被害を受けたのは日本の要人で、犯人は安重根という韓国人、という複雑極まりない事件だったからだ。しかし日本としては何としても犯人を裁きたい。そこで次のような論理を持ち出して裁判権を得た。

 

ハルビンにおける裁判権はロシアが有しているが、犯人が韓国籍ゆえ、治外法権が適用される。そして、韓国との保護条約によって、裁判権は日本に移り、日本の刑法が適用される―――という強引な論理である。とにかく、日本の主張も通しつつ、ロシアも清国も面子が立つようにしなければならないのだ。

 

そして、必死の外交交渉のお陰で、十月二十八日になってロシア官憲から日本側に犯人が引き渡された次第であった。

 

ロシア側の動きは迅速だった。安重根を捕縛した当日、近くの駅にいた不審な韓国人二名に尋問したところ、拳銃を持っており、安重根との関与を自白したため、逮捕。さらに、満州で反日的活動にかかわっていたと見られる韓国人たちを、片端から逮捕していったのである。その数、およそ三十名。

 

当初は安の単独犯行と見られていたが、満州における韓国人コミュニティーが関与する組織的・計画的犯行の可能性が高くなっていた。

 

 

 

そして今日、十月三十日朝―――都督府高等法院検察官・溝淵孝雄は、旅順において、ハルビンから護送された実行犯・安重根の第一回尋問に臨むことになった。

 

「引き渡された三十余名のうち、どれほど立件が可能と思うかね?」

 

平石が、特徴的な長い顔を溝淵に向けて訊く。

 

「日本側は残念ながら満州での警察権はありませんから、ロシア側の捜査結果をそのまま受け入れるしかないでしょう。容疑者のほとんどは釈放せねばならないと思います」

 

「政府のお偉方は伊藤公が殺されたのをお怒りになっている。お上は国家の威信にかけても、犯人を処罰したい構えだ。日本の威信は、君の尋問能力にかかっているのだよ。頑張ってくれたまえ」

 

 

 

溝淵は、平石の激励を思い出しながら、通訳、書記官とともに安のいる部屋に入っていった。

 

机をはさんだ向かいに、安重根は座っていた。

 

身長は百六十センチちょっとというから、小柄な方だ。今年で満三十歳。口髭を生やし、髪を洋風に整えている。溝淵の印象に残ったのは目であった。悪びれた風もなく、落ち着いて前を見つめる彼の目には、自分の行いに対するゆるぎない確信が見て取れた。

 

溝淵は金縁の眼鏡をずり上げ、尋問を開始する。鋭敏な頭脳の持ち主である彼は、心理戦には自信があった。通訳官・園木は朝鮮語の達人だと聞いている。心理戦の鍵となる、言葉のちょっとしたニュアンスまでも伝えてくれることだろう。

 

氏名、住所など型通りの質問の後、溝淵は注意深く核心に迫り始める。

 

財産も、教育もない平凡な基督教徒の猟師。韓国とロシアの国境の田舎に住んでおり、交友は猟師仲間くらい、という。こんな男が、何故伊藤を狙撃しようと考える?

 

「君が平素敵視している者はいるかね?」

 

「今までは別段ありませんでしたが近頃一人できました」

 

「それは誰だ?」

 

「伊藤博文さんです」

 

「伊藤公爵を何故敵視するのかね?」

 

「伊藤さんには以下の罪状があります。

 

 第一に、十年ほど前、彼は韓国王妃を殺害しました。

 

第二に、五年前、彼は武力をもって韓国の不利益となる条約を結ばせました。

 

第三は、三年前に彼が結ばせた条約は、軍事上韓国の不利益になったことです。

 

 第四に、彼は強いて韓国皇帝の廃位を図りました。

 

 第五は、韓国の軍隊を解散させたこと。

 

第六に、条約に反発した韓国人が義兵運動を起こした結果、彼は多数の韓国人を殺させることになりました。

 

第七に、韓国の政治その他の権利を奪い、第八に、韓国の教科書を焼却することを指揮しました。

 

 第九は、韓国人が新聞を読むのを禁じたことです。

 

 第十、悪い官吏に金を与え、韓国民になんら告げることなく第一銀行券を発行しました。

 

第十一に、韓国民の負担となるであろう国債一千三百万円を募りました。

 

第十二、伊藤さんは東洋平和を唱えながら、韓国皇帝を廃するなど、逆に平和を撹乱しています。

 

第十三、彼は韓国保護の名のもとに、韓国の不利益となる政策を施しています。

 

 第十四に、彼は現在の日本国天皇の父君を殺害しました。

 

そして第十五、伊藤さんは、韓国民の憤慨にもかかわらず世界各国に対し、韓国は平穏だと嘘をついています。

 

 以上の理由により、私は伊藤さんを殺害しました」

 

 

 

 一気に話し終えた安を見て、溝淵はいささか気勢をそがれた。

 

―――こいつは手ごわい。

 

安のよどみない口調からして、これらの「罪状」はあらかじめ用意してあったのだろう。安は、全ての韓国民のために、決死の覚悟で伊藤を殺した、という絶対的な信念を持っているようだ。罪の意識、死の恐怖を持ち合わせていないのだから、共犯者については簡単には口を割ることはしないだろう。真相の解明は余計に難しくなる、と溝淵は思った。

 

 

 

韓国人による排日活動は、これまでにも根強くあり、韓国内ではたびたび武装勢力が蜂起していた。前韓国統監だった伊藤は、その対応に追われ、ついに辞任するまでになっていた。韓国の近代化、日韓の平和共存を目指す伊藤は、韓国民の反発と、それを武力で弾圧せねばならなかったことに苦悩したに違いない。

 

だが、そうした排日派分子に「売国奴」と非難される韓国首相・李完用(イーワニョン)らをはじめ、日本支配やむなし、という勢力も確かに存在する。ロシアや清国、欧米列強よりも、近代化が進み、肌の色も同じ日本の方がはるかにまし、という意見だ。

 

手ごわいとはいえ、安の論理には十分反駁できる、と溝淵は思った。いかに鋭敏な頭脳といえども、これらも「侵略者側の論理」に過ぎないことに、溝淵は気付いていなかった・・・・・・

 

 

 

溝淵は安に、諭すように語った。

 

「君はそう言うが、欧米に支配された国がどのような運命をたどったかを見てみたまえ。イギリスをはじめ、どの国も搾取することだけを考え、原住民のことを虫けらのように扱っているではないか。日本は韓国に鉄道網を整備し、衛生を完備させ、殖産工業を発展させ、さらに、韓国の皇太子を列強諸国と比べても恥ずかしくない君主に教育しようとしている。その先頭に立っていた伊藤公を―――」

 

「皇太子殿下を御養育下さっている事に関しては、一韓国民として感謝しております。しかし、そうした利便性と、韓国の将来の国益は、全く別物です」

 

 溝淵はすかさず問うた。

 

「ならば、君は韓国の将来についてどう考えているのだ?」

 

「もし伊藤さんが生き続けていたら、韓国はおろか日本までもが滅亡に至るでしょう。私は、韓国のみならず日本、いや東洋全体の平和のために、伊藤さんを殺したのです」

 

 

 

安の口調は、常に明快であった。彼は自身の大義について、実に理路整然と語り、溝淵を大いに困惑させた。その一方で、他の事件関係者については、やはり知ら無い、関係が無いの一点張りを続けたのである。

 

安重根の第一回尋問は、たいした収穫も無く終わった。

 

 

 

丸一日が尋問に費やされたことになるが、溝淵はまだ仕事を終えようとしなかった。執務室に戻った彼は、書記から尋問の詳細な記録を受け取り、読み返した。

 

やはり目を引くのが、安の語った「伊藤の罪状十五か条」である。改めて目を通し、溝淵は何か胸に引っかかるような違和感を覚えた。あまり問題にならない項目もある。そもそも第一項は明治二十八年(一八九五)に起きた「閔妃(ミンビ)暗殺事件」を指すが、事件に伊藤は関わっていない。

 

しかし―――第一四項は、他と比べて、ひときわ異彩を放っている。他は韓国の利益に関することなのに―――

 

何故、安が「伊藤が今の天皇の父を殺した」と告発するのか?

 

しかも、根拠がない。明治天皇の父は孝明天皇であるが、確かに崩御された際、「毒殺ではないか」と噂が立ったことはある。しかし、当時若輩だった伊藤が天皇暗殺など企てられるはずもない。それとも韓国では、そんな噂が流れているのか?

 

朝鮮の事情に通じている園木通訳は、「そんな話は聞いた事もない」と言うが・・・・・・

 

 

 

考え込むときの癖で、溝淵は跳ね上がった口髭をひねった。まだまだ事件を甘く見ていたようだ。伊藤の随員であった小山医師から、弾道が不自然であるという報告も受けている。この時点で、安の単独犯行ではないことを彼は確信していた。

 

必ずや全てを明かして見せる、と溝淵は検事の誇りにかけて、静かに誓った。

 

 

 

5.

 

「ふざけておるとは思わんかね?」

 

 平石氏人は荒々しい調子で言った。形のよい鼻の下にある口髭が、怒りで震えている。平石がこれほど感情を露にするのは珍しかった。差し出された片手には、小村寿太郎外務大臣からの電報が握られていた。

 

「読んでみたまえ」

 

 さっき呼び出されたばかりの溝淵は、事情を飲み込めないままその紙を受け取った。

 

 

 

  政府ニ於テハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニ依リ極刑ニ処セラルルコト、相当ナリト思考ス・・・・・・他ノ共犯ラシキ者三名ニ関シテハ、別段希望ハナシ。

 

 

 

十二月三日朝。日本政府は、ついに安重根の裁判の判決にまで介入し始めたのであった。

 

「そもそも司法権が、立法権や行政権から独立しておるということは、法治国家として当たり前のことだ。それなのに、立法をつかさどる者があえて法を犯すなど、断じて許すべきでは無い!」

 

 正論だ、と溝淵は思った。

 

 平石のような人間を、土佐弁で「頑固者(いごっそう)」という。

 

 溝淵と平石は同じ高知県の出身だった。自由民権運動発祥の地となった土佐の人々は、筋を通さねば気がすまないという気質がある。自分もその卦があるためか、溝淵は平石の気持ちがよく分かった。

 

 しかし、ロシア主権下の満州で日本が裁判権を得るため、政府側が必死の外交交渉をしたのも事実である。そして何より、伊藤博文暗殺犯に厳重な処罰を加え、平石自身が以前強調した「国際的な威信」を保ちたいに違いない。

 

 平石にしても、筋を通したいのは当然だが、「関東都督府高等法院長」という立場上、いずれ圧力に屈する以外道は無くなるだろう。

 

「恐れていた事態が起きてしまいましたね」

 

「溝淵君の方針にも難癖をつけておるんだ。委細にこだわりすぎていて、これでは解決まで何年かかるか分からない、と」

 

 やはりそこにも圧力があったか。

 

「このまま行けば、年明けには裁判を行うことになりそうだ。」

 

「なんですって!」

 

 いくら何でも急すぎる。

 

時間がない―――溝淵は焦燥にかられながら、都督府高等法院長室を辞した。

 

 

 

執務室の椅子に深々と腰掛け、溝淵はこれまでに得られた情報を整理し始めた。

 

安重根は、ロシアのウラジオストックに滞在した後、鉄道でハルビンに向かったことが分かっている。ウラジオストックには、韓・露の国境に近いこともあって韓国人が多く住み、韓人街を形成していた。この韓人街を中心に活動する「ウラジオストック韓民会」という朝鮮民族主義的秘密結社の関与が疑われていた。

 

昨年三月、サンフランシスコでアメリカ人外交官スティーブンスが暗殺された。日韓関係において、日本の利益になるよう誘導したことで、韓国の反日過激派の怒りを買ったとされている。この事件の糸を引いていたと噂されたのが、この「韓民会」の幹部たちだった。

 

 ところが、ここから捜査が進展しないのである。

 

 安重根の供述では、彼は韓国の新聞によって伊藤博文の満州行きを知り、犯行を決意。協力者を求めて十月十三日に郷里を出発し、ウラジオストックに向かった、という。

 

 しかし、安の供述は二転三転し、要領を得ないのだ。この間も協力者の「李某」は架空の人物だと判明した。慣れない韓国人名が次々に飛び出してくる上、こうした人物は偽名や通称を用いたりしているので、捜査は混乱を極めた。

 

 逮捕された三十名ほどのうち、安との関与が決定的なのは三人だけだった。ハルビン近くの駅に潜伏中だった()(チョ)と、満州で安の案内をした(ユー)という青年だけである。彼らの供述は、今のところほとんど役に立っていない。劉にいたっては、本当に何も知らないまま利用されたのではないか、という気がする。

 

 それにしても―――安重根はたいした男だ、と思う。仲間を売ろうともせず、むしろ罪を全て自分で背負おうとしている。最近、溝淵は、検事としての自分以外に、安に同情を寄せている自分を発見することが多くなっていた。

 

 まさに八方塞がりだ。それなのに、年明けには裁判を始める、という。とにかく与えられた職務を忠実にこなしていくことだ、と溝淵は思った。そうすることが真実の解明に繋がるのだ、と信じた。

 

 

 

6.

 

 日本に帰国してから、室田義文はようやく落ち着きを取り戻し、事件前と変わらず職務をこなすことができるようになっていた。最近の彼の主な仕事は、海軍が出資しているとある製鉄会社の、経営再建に向けての調整だった。  

 

 今日、十二月十二日も、海軍省でその問題について会議があり、室田も出席することになったのである。

 

 その会議が終わってから、海軍省を辞そうとする室田を呼び止めるものがあった。

 

「室田さん。すまないが、少し時間をいただけないかね」

 

 声の主は山本権(やまもとごん)兵衛(べえ)海軍大将であった。日露戦争時は海軍大臣として、軍政面で辣腕を振るった人物である。軍人にしてはリベラルな思想の持ち主で、室田も以前から好ましく思っていた。

 

 その山本が、普段の豪快な人柄からは想像もつかない、苦虫を噛み潰したような表情で室田を呼んでいる。不審に思いながらも、彼は承諾した。

 

「いささか話しづらいことなんだが、・・・・・・赤坂の料亭で、一杯やりながら話そう」

 

 

 

広い座敷に腰を落ち着けた二人は、色とりどりの膳を前に、まず一杯目を傾けた。

 

「で、一体どうしたことだ」

 

「うむ・・・・・・」

 

 室田の問いに山本は口を濁した。そんなに言いにくいことなのか。

 

「貴公らしくもない、はっきり言ってくれ」

 

「先日、桂に呼ばれたんだ」

 

 桂とは桂太郎首相のことである。

 

「例の伊藤公の事件についてなんだが、その・・・・・・貴公が検事に語った証言が問題になっとるんだ。貴殿の証言は、非常に詳細で、しかも興味深い。

 

それが、問題だと言うのだ。貴公はもう一人狙撃者がいると言うが、その犯人を示す手がかりが全く無い。貴公の証言に従っていては、それこそ真相解明まで百年かかる。いや、百年でもいい方かもしれん。だから―――」

 

「待て、山本さん。私にあの証言を引っ込めろと?」

 

 にわかに気色ばんだ室田を、山本は制した。

 

「桂も真相を解明したいのは山々だが、これはただの殺人事件じゃない。政治上、外交上の大事件だ。これ以上ごたごたが続いたら、ロシアとの関係はどうなる。満鉄はどうなる。韓国の統治にも差し支えが―――」

 

「対外関係がもつれるのを心配するのはよく分かるよ。しかし、伊藤さんの死にこうして蓋をしてしまったら、伊藤さんは浮かばれんぞ」

 

「何も証言を撤回しろとか、嘘を言えというわけじゃあない。貴公の推測と言うか、推理を抜きにして、見たままを言ってくれたらいい。弾の数だの弾道だのは、専門家に任せておいて、な」

 

「しかし―――」

 

 なおも抗弁を続けようとする室田に、山本が畳み掛けた。

 

「なら訊くが、真相を解明したら、伊藤公は生き返るのか?もっと大事なことがあるんじゃないのか?

 

 頼む、この通りだ。俺の立場と言うのも分かってくれ。俺もこんな頼みをするのはつらいんだ―――」

 

山本は懇願しながら室田の杯に酒を注いだ。室田はむっつりと黙りこくって杯を受け取った。山本はその様子に、苦渋の上だが了解した、という答えを見出した。

 

「ありがとうよ、これで俺も面目が立つ」

 

 しかし室田は答えないまま、憤然と杯をあおった。

 

 

 

7.

 

「恥知らずめ!」

 

 三人の男のうち、一番背の高い一人が、さも汚らわしいといった調子で吐き捨て、唾を客間の絨毯に吐いた。男の朝鮮語には、朝鮮北部の訛りがあった。

 

「こんな夜中に押しかけてきて、無礼じゃないか」

 

 男たちと向かい合って椅子に腰掛けている男が応えた。この家の主人らしく、年齢は四十歳位だろうか。声の調子は静かで理知的だったが、響きには凄みがあった。

 

「まずは座らんかね」

 

 主人が客間の片隅にあるソファを指差した。しかし、男たちは三人ともひどく興奮しているのか、突っ立ったまま外套も脱ごうとしない。皆二十代から三十代ほどと若かった。

 

「どういう用件だ」

 

「貴様を殺しに来た」

 

 若者たちのうち、一番年かさで、リーダー格らしい男が答え、外套のポケットから手を出した。手には鈍く輝いた拳銃が握られていた。

 

「何故私がお前たちに殺されねばならん」

 

 拳銃を突きつけられているという状況にもかかわらず、主人は落ち着いていた。

 

「ならこっちからも質問してやる。安が捕らえられたのに、貴様は何故のうのうと暮らしていられるんだ」

 

 男たちのうちの、口髭を生やした男が詰め寄る。

 

「貴様だけが逃げおおせやがって」

 

主人は顔を上げた。端整な顔には、恐れも怒りも浮かんでいなかった。

 

「確かに、私の仕事は安に比べれば数段安全だった。現に、今ここにいられるのだからそれは否定しない。だが、彼の引き受けた囮役の仕事は、あまりに危険すぎたんだ」

 

「そんなはずは無い。身の安全は保証されていたはずだ」

 

「捕まった後、ロシア官憲相手なら、裏工作で釈放させられただろう。だが、日本政府が予想以上に迅速で、安は日本側に引き渡されてしまった。さすがに日本側に裏工作は効かない。見通しが甘かったとは思うが、私に責任は無いはずだ。それに」

 

 一気に言ってから、主人は付け加えた。

 

「参加してもいないお前たちが、何故とやかく言うのだ?」

 

「参加してないだと?俺たちがどれだけ安に協力してやったのか分かってるのか?」

 

口髭の男が凄み、男たちは一歩前に出た。椅子に座った主人の周りを、屈強な若者たちが取り囲む形となった。

 

「そうか。私が安穏と逃げおおせている上、報酬まで受け取ったのが気に食わんのか。安に報酬が支払われれば、自分たちも山分けできるのに、と」

 

「分かってるじゃねえか」

 

 長身の男が歯茎を見せて笑った。

 

汚らわしい笑いだ。安や自分が、どんな気持ちでハルビンに乗り込んだのかを、全く分かっていない。確かに金は受け取った。食うためだ。しかし、それ以外に、命を賭けても成し遂げたかったことがあった。命を捨てても守りたかったものが―――祖国が。

 

「残念だが、お前たちにやる金は無い」

 

 男たちの顔色が変わった。

 

「もう一度言ってみやがれ!」

 

 年かさの男が拳銃を主人のこめかみに突きつけた。

 

 撃つがいい。一度は捨てた命だ。こんな形で名誉を奪われるくらいなら死んだ方がましだ。だが、最期に一つ聞きたいことがある。

 

「これは、韓民会長の差し金かね?」

 

 男たちは答えなかった。代わりに銃の撃鉄が上がった。・・・・・・

 

 

 

8.

 

「君に頼みたいことがある」

 

 淡々と話し続けていた室田老人は、唐突に話を途切れさせた。

 

「何でしょうか」

 

「これから話す内容は、本には書かないでくれんか」

 

「承知しましたが―――何故です」

 

 私は老人の突然の頼み事に戸惑いつつ、問うた。

 

「今までの話は事実じゃが、これからはわしの推測が入る。

 

 ところで、君は今でも安重根の単独犯行説を信じとるかね?」

 

 私は首を横に振った。これまでの彼の話は、事件には別に真犯人がいたということを、明確に示している。

 

「伊藤さんを殺したのは、本当は誰か。二十八年間、考え続けた末の結論を、君に教えよう」

 

 言葉だけを聞くと、まるで小説か活動写真の一場面のようだった。しかし、老人の表情は穏やかな微笑を浮かべたままだった。これから三十年前の犯罪に隠された真実を暴き出そうと言うのに、老人が思い出話をしているような雰囲気は変わらなかった。

 

「事件を解く最初の鍵は、安重根が尋問で語った、『郷里を出た日付』じゃよ。安は新聞で伊藤さんの満州行きを知って、犯行を決意し、その年の十月十三日に出発した。一方で、伊藤さんの満州行きが日本の新聞に載ったのは何日じゃったかの?」

 

「十月八日です。それが何か?」

 

「日付から見ればちっともおかしくない。だが、安は朝鮮北部の山奥、通信も未発達の、情報がなかなか届かないところに住んでおった。八日に日本の新聞に載ったとしたら、情報が着くのは早くとも十四日になる、というほどに」

 

 ということは―――

 

「安の供述は嘘で、彼に情報を事前に与えられる人物がいた、ということじゃ。それは誰か」

 

 老人は再び溝淵検事による尋問の記録を取り出した。

 

「第二の鍵になるのは、安重根が最初の尋問で語った、伊藤さんの『罪状十五か条』じゃ」

 

 改めて記録された文言を見てみる。

 

「重要なのは、十五か条のうち、一つだけ異質なもの。『明治天皇の父君を殺した』罪じゃ。他は韓国の国益に関することなのに、何故こんな、事実とすら言い難い項目が入っておるのか。しかも―――百歩譲って事実としても、本来なら安が知っておるはずも無いことを。

 

それは、この『十五か条』が第三者から与えられたものだから、と考えればつじつまが合う。その第三者がいるとすれば、伊藤さんの若い頃の知られざる悪行を知っている人物だろう、と誰しも考える。具体的には長州閥の志士たち、当時の政界を牛耳っていた大物たち。

 

つまり、安重根の背後には日本政界の大物が控えているから安易に事件に首を突っ込むな、と暗示しておる、とは考えられんかね」

 

「しかし―――その某政治家と安に、どういうつながりが・・・・・・」

 

だが、老人は答えずに話を続けた。

 

「事件から三ヵ月後、ウラジオストックの韓人街で、殺人事件が起きとる。被害者の名は楊成春、犯人は安と同じ朝鮮北部出身の流れ者たちじゃった。

 

楊成春は先代の韓民会会長だったが、特に権力もなく、穏健派で別に恨まれるような男ではなかったそうじゃ。何故、彼が安の仲間に恨まれたのは謎のままじゃった。

 

 しかし―――これはあくまで想像に過ぎんが、楊があの日、ハルビン駅にいたもう一人の狙撃者だとしたら―――」

 

安は捕まり、楊は逃れた。だが、それでは「安の仲間」に恨まれる理由にはならない。―――いや、金か?楊だけは報奨金を受け取り、安は受け取れない。仲間は怒る―――

 

「それは、あまりに穿ちすぎてはいませんか?」

 

「あくまで想像じゃよ。それは余談として置いておこう。

 

 これを見たまえ。こっちは事実じゃから」

 

 老人がまた別の資料を開いた。韓国人の人名と、説明が多数載っている。

 

「韓民会会員の中で、日本側が要注意人物としたリストじゃ」

 

 室田老人が指さした人物を読んでみると―――

 

 

 

【金秉学。上流階級で、ロシアに帰化。四十六歳。韓民会副会長。日本商社との繋がりで富を築き、ウラジオでは韓民会長・崔に継ぐ資産家。子息を慶応義塾に留学させ居り。】

 

 

 

「ウラジオでは、実に多くの韓国人が、日本企業との提携で、巨万の富を築いておった。そこで―――」

 

「日本政界に繋がる人脈があったとしても、おかしくはない、と」

 

「日本を目の敵にする反日過激派分子と、日韓併合強硬論者。一見正反対のようで、伊藤さんを殺害することについては、利害が一致していたんじゃよ」

 

 

 

韓民会を通し、日本政界の「黒幕」と安重根は繋がった。しかも、その黒幕は、伊藤の満州行きを事前に知ることができる、権力の中枢にいた。

 

 問題は、それは誰か、ということだ。

 

「何人か候補がいる。元老の山縣有朋は伊藤さんの好敵手として知られ、伊藤さんの死後元老の筆頭として権力を振るった。桂首相、小村外相はわしや司法関係者に圧力をかけ、真相に蓋をするために奔走した。

 

 他には、右翼の大物として知られた杉山茂丸。政財界に影響力があったが、決して表には出てこなかった。当時の強硬な日韓併合論者の筆頭で、伊藤さんは当時、最大の障害じゃった。彼の名は知っておるかね?」

 

 知っているも何も―――

 

「作家の夢野久作先生の父君でしょう。彼の本名は杉山泰造です。わが社も何度もお世話になりました」

 

大体の容疑者は出揃ったか。共通項は、日韓併合論者だったということ。

 

「しかし、ここからはもう進まない。証拠が無いからじゃ。だから、出版して欲しくないんじゃよ。わしの目的は、いまさら波風を立てることじゃない。分かってくれるね」

 

私は頷いた。しかし、一つ疑問が残る。何故私にだけ、話してくれるのか。

 

私の胸中を見透かしたように、老人は続けた。

 

「わしはこの事件の話を、墓場まで持っていくつもりじゃった。だがあの時の悔しさを思い出すと、誰かに伝えておきたくなった。いや、伝えなければならないと思ったんじゃ。川上総領事も、平石法院長も・・・・・・当時の関係者がほとんど亡くなってしまった今、誰にそれができる?」

 

あの時―――それは、室田老人が山本大将に押し切られて、真相に蓋をしてしまったときに違いない。老人は、それ以来、ずっと苦しんできたのだろう。

 

「君は、物書きにしては―――いや失礼―――信用できそうに見える。だから、君だけに教えるんじゃよ」

 

 

 

しばらくの間沈黙が支配した。もはや日は暮れていた。庭から聞こえる鈴虫の声が、耳に心地良く響いていた。

 

 唐突に、老人が口を開いた。

 

「まだ、一つだけ鍵が残っとる。分かるかね」

 

 私が首を横に振ると、彼は言葉を続けた。

 

「伊藤さんがロシア大蔵大臣ココフツェフとハルビンで会った時、ココフツェフははじめに何と言ったか」

 

 ココフツェフの言った言葉といえば―――

 

(満州を視察中、偶然日本帝国の元勲と居合わせ、会談する機会が得られたのは実に光栄なことです)

 

 

 

「ロシアの大蔵大臣ともあろう人物が、偶然居合わせた日本の政治家と会談するかね?非公式のものだから公には『偶然出会った』ことになっとるよ。しかし、何故『偶然』をここまで強調する必要があるのかね?」

 

会談は偶然の機会、と強調する必要があった。暗殺事件に、ロシアは無関係だ、とでも言いたげに。裏を返せば―――

 

 

 

「伊藤さんが満州に出発した時点で、全てはお膳立てされていた、とは考えられんかね」

 

 それができた人物といえば―――

 

「時の逓信大臣、後藤新平。日韓併合論者で、動機もあった。円の中心にいたのは、彼ではないかと思う」

 

 

 

 これが、室田義文老人の出した結論であった。

 

「安重根は、何も語らないまま、一人処刑された。裁判で、銃弾の話が取り上げられることはなかった。もはや真相を知る術は何もない。

 

 だが、これだけは言える。安重根は、自分は祖国のために死ぬ、と信じていたんじゃ。

 

 それなのに、この事件のわずか十ヵ月後、韓国は併合されて、現在に至っておる。これほど残酷なことはないよ」

 

 室田老人は言葉を切った。

 

「今、朝鮮が日本の一部なのは当たり前のように見える。だが、わしから見れば不自然そのものじゃよ。わしの考えは当時からずっと変わっておらん。

 

 今にして思えば、伊藤さんを殺したのは、目に見えない『歴史の流れ』のようなものかもしれんの。いや、伊藤さんだけじゃない。安重根も、楊成春もじゃ。

 

 その時は、日韓併合は何人たりとも、抗うことは許されない『歴史の流れ』じゃった。正しいか、そうでないかは関係なく。伊藤さんも、安も、東洋の平和を追求したがために、残酷なその『流れ』に飲み込まれたんじゃよ」

 

 老人は私の顔を見つめた。その顔はもう笑っていなかった。

 

「日本は、今度は中国と戦争をはじめとる。アジアの平和など、夢のまた夢じゃ。

 

 だが―――伊藤さんが夢見たように、日本や韓国が並んで繁栄し、平和を謳歌できる時代が来ることは、本当に夢物語で終わるんじゃろうか?」

 

 きっと―――違うと思います、と私は答えた。

 

「そうか、君もそう思ってくれるか」

 

 室田老人のしわだらけの顔には、再び微笑みが戻っていた。

 

 

 

〈了〉