シラクサ最後の日

三城俊一

 

 

 

 

 

「……現在、猛将マルケルス率いる精鋭四個軍団がイタリア半島を南下し、シラクサに迫っております。その兵数、三万以上と伝え聞きます。対するわがシラクサは、予備役まで招集しても兵数は一万にも届くかどうか。堅い外壁が一時は敵の侵攻を喰いとどめることでしょうが、せいぜい持って一年というところでしょう。兵力の巨大さをもって力攻めするローマ軍の戦法の前では、兵力に劣り、近年大きな戦闘を経験していないわがシラクサ軍はひとたまりもないでしょう。―――アルキメデス殿、神より与えられたとしか思えぬその素晴らしき頭脳を、どうぞわれらにお貸し与え下さいまし。宰相は望み通りの報酬を与えることでしょう。例えば、言い値通りの年金でもかまいませぬ。この文言に偽りのないこと、この私が神に誓って保証致します」

 

 使者は与えられた口上を言い終わると、いささかの不安を持って目の前の老人を見やった。使者の表情には、もはや懇願に近い色が浮かんでいる。

 

 シチリア島を代表する都市国家シラクサにある、高名な数学者にして科学者、アルキメデスの屋敷である。

 

 懇請を受けている当のアルキメデスは、相変わらず眉間にしわを寄せ、目を細めた難しい表情を崩していない。しかも先程から一言も発しておらず、その心のうちを完全に隠すことに成功していた。シラクサが生んだ天才的数学者であり、科学者。かつてシラクサ王ヒエロン二世より金の王冠を預かり、本当に純金であるかを、王冠を鋳つぶしたり傷つけたりすることなく調べよという命を受けたことがある。アルキメデスはこの難題に全力で取り組み、大いに悩んだが、ある日公衆浴場に入った時、湯が湯船からあふれ出るのを見、現在で言う「浮力の原理」のヒントを得たという。彼は興奮のあまり「ヘウレカ」―――「われ、発見せり」―――と叫びながら裸のまま浴場を飛び出したと伝えられる。果たして王冠は純粋な金ではなく、王冠を純金と偽って献上した金細工師は死を賜ったという。

 

 

 

 使者は心の中で焦燥を感じていた。彼が今まで交渉した政治家や商人のような人間とは、全く種類の違う人間だからだ。禿げ上がった頭部はいかにも知性を感じさせるが、先に示した逸話のように、常に頭の中は自らの研究のことに占領された、浮世離れした性質の人間であると伝え聞いている。果たして、彼はこの請願を受けるであろうか。

 

アルキメデスは沈黙を保っている。何を考えているかは、外からは全く分からない。すべてを透徹しているかのごとき彼の目は、一体今何を見ているのだろう。使者は、自分の脈拍が上がるのを感じた。この国難のときに、手ぶらで宰相の元へは帰れぬ。この体を地に投じてでも、この場でアルキメデスの首肯を勝ち取らねばならぬ。

 

「アルキメデス殿―――どうか、われらシラクサ市民のために……」

 

 使者が自らの体を地に伏せようとしたその時であった。椅子に深く腰掛け、難しい顔をしていたアルキメデスが、おもむろに立ち上がったのである。

 

「ヘウレカ」

 

 

 

―――?

 

 

 

 老人の口からぽつりと出た言葉に、使者は唖然とした。

 

「どうなさったのです?」

 

 アルキメデスは小難しい表情を崩すこともなく答えた。

 

「滑車と梃子を組み合わせれば、従来のものよりはるかに威力の高い投石機を作れるのではないか、と思いついたのじゃ」

 

 アルキメデスは、考えていたのだ。使者が口上を述べている間に、既に祖国のために力を貸す決意を固め、その次の段階を考えていたのである。

 

「では―――お力をいただけるのですね!このシラクサに」

 

 歓喜する使者を尻目に、アルキメデスはトーガの裾を直し、その場を離れようとする。

 

「今から新しい投石機の設計に取り掛からねばならぬ。アイデアが消滅せぬうちに。それでは、失礼する」

 

 あまりに急な展開に、使者は慌てた。

 

「お待ちください!報酬の話をまだしておりませぬ!」

 

 追いすがろうとする使者に、アルキメデスは振り返り、少し考えて言った。

 

「十分な長さの梃子と、足場が欲しい」

 

「えっ?」

 

「それをいただけたら、地球を動かして見せて進ぜよう、と宰相殿にお伝えしていただきたい。それでは」

 

 アルキメデスは、梃子の原理の発見者である。

 

 呆然とする使者を後に、アルキメデスは邸宅の奥の間に消えていった―――。

 

 時に、紀元前二一三年の春のことであった。

 

 

 

 

 

 

 紀元前二百十九年、新興国ローマと地中海の大国カルタゴとの戦争が再び勃発した。世に言う第二次ポエニ戦役である。第一次ポエニ戦役でローマに不覚を取ったカルタゴは、地中海における制海権を大幅に失った。この屈辱を雪がんと立ち上がったのが、カルタゴの若き将軍、ハンニバル・バルカであった。ローマへの復讐に燃えるハンニバルは、イベリア半島を経由してガリアに入り、戦象を含む大軍を率いてアルプス山脈を越え、北イタリアに侵入した。前代未聞の奇襲に慌てふためくローマ軍に対し、ハンニバルは天才的な用兵でローマ軍を大いに苦しめた。特に紀元前二一六年のカンネーの戦いでは、総兵数五万と兵力に劣るにもかかわらず、兵数八万七千に及ぶローマ軍を包囲、殲滅へと追い込んだのである。

 

 イタリア半島の南側に位置するシチリア島の中心都市シラクサも、地中海世界の緊迫した国際情勢とは無関係ではいられなかった。

 

 

 

 シラクサにおいて状況が変わったのが、カンネーの戦いの翌年、紀元前二一五年であった。先の金の王冠の逸話にも登場したシラクサ王にして、第一次ポエニ戦役終結以来、一貫してローマの強力な同盟者であったヒエロン二世が、九十歳という高齢をもって病没したのである。跡を継いだのは弱冠十五歳の孫である。統治能力に欠いた君主を戴いたシラクサでは、当然のように内紛が起こった。

 

 ハンニバルはこの機を見逃さず、シラクサに密偵を放って工作を行った。結果、反乱は成功し、少年君主も殺されてしまった。そして、新たにシラクサの実権を握ったクーデタ派は、カルタゴ側につけばシラクサをシチリア島全域の盟主にするという密約に乗り、ハンニバルと同盟を結んだのである。

 

 南側に突然有力な敵が現れたローマは狼狽した。紀元前二一三年、シラクサ攻略のために、精鋭三万以上の大軍とともに送り出されたのは、名将として名高いマルクス・クラウディウス・マルケルスであった。当年五十七歳。「ローマの盾」と渾名された持久戦主義者ファビウス・マクシムスとは対照的に、積極戦法により「ローマの剣」との異名をつけられた勇将である。ローマの根拠地であるイタリア半島を荒らしまわるハンニバルから、わざわざこの名将と貴重な兵力を引き離してシラクサに送り込んだ点にも、第二次ポエニ戦役におけるシラクサの重要性が分かるであろう。

 

 敵を十分に上回る兵力を擁したローマ軍は意気軒高であった。しかし、ローマ軍はやがて、シラクサ攻略の前には大きな壁が立ちはだかっていることを知ることになる。それは堅固な城壁でも、周囲を海に囲まれた地形でも、敵方の将軍の優れた知略や敵兵の高い士気でもなく―――アルキメデスという、たった一人の人間の頭脳であった。

 

 

 

 

 

 

 轟音が響いた。

 

 シラクサの城壁の内側から飛んでくる数十、数百もの岩が、陸上から押し寄せようとするローマ兵の上を、絶え間なく飛び交っては地面に衝突し、彼らの動きを封じているのだ。岩が命中した不運なローマ兵は、ある者は頭部を吹き飛ばされ、ある者は腹部に風穴を開けた。

 

 シラクサの領土は、シチリア島本土のわずかな領地と、陸から跳ね橋で繋がった小島からなっている。将軍マルケルスは、二万の兵士によって陸側を包囲、百隻の軍船によって海上を封鎖し、シラクサの支配領域を完全に包囲したうえで、本格的な攻城戦に取り掛かった。その彼らの前に立ち塞がったのは、今まで彼らの見たこともない兵器であった。

 

 

 

「……投石機に岩を設置するのに、滑車を使うことで人力よりはるかに高い効率で投石することが可能になった。さらに、滑車と梃子の原理を組み合わせることにより、従来二、三スタディオン(一スタディオンは約百八十メートル)程度だった射程を、四スタディオン以上にまで伸ばすことに成功したのじゃよ。しかも、人馬の力の入れ具合を調節することで、射程距離も自在。更に、車輪をつけることでどこにでも移動が可能になっておるから、ローマ兵が攻める位置を変えようとも心配ない」

 

 シラクサの城壁の内側では、シラクサ軍将校たちがアルキメデスによる新兵器の説明を受けている。彼らの目の前には、今まで目にしたこともないような異形の機械が、間断なく岩を発射し、ローマ兵の動きを阻害していた。

 

「投石機を防ぎようもないローマ軍に比べて、わが軍は城壁の上からのぞいて敵兵の動きを知らせる者が居さえすればよい。こちらが人的被害を受けることはまずなかろう。万一投石機の攻撃をかいくぐって、ローマ兵が城壁にはしごをかけてきたら、これを使えばよい」

 

 アルキメデスが指差した先には、これまた奇妙な、巨大な棒状の機械が置かれていた。

 

「ばねの原理を応用して、城壁にかけられたはしごを跳ね飛ばしてしまえる」

 

 居並ぶ将校たちから、感嘆の声が漏れる。

 

 アルキメデスの眉間には相変わらず深いしわが刻まれ、不機嫌そうな表情は変わっていない。笑うということを忘れてしまっているかのようだ。しかし、観察力に優れた者が見れば、その深い皺の刻まれた頬にかすかな赤みが差していることに気付いたであろう。彼は、間違いなく正の感情に突き動かされていた。それは、自らの力で祖国に貢献できる喜びなのか、それとも、単に自らの頭脳を大いに働かせる機会が来たことへの喜びなのかは、傍で見ている将校たちには分からなかった。唯一つ確かなことは、シラクサは数万の大軍よりも貴重な戦力を得たのだ、ということであった。

 

「見事な新兵器ですな、アルキメデス殿。ところで、陸側の敵はそれでよいとして、海側からの攻勢にはどう対応なさるのです」

 

 一人の将校の問いに、アルキメデスは純白の顎鬚をなでながら答えた。

 

「その点にもぬかりはござらぬ。そろそろあれが完成する頃合いじゃ。口で説明するより、実際に見ていただくのが早かろう」

 

 

 

 海側の城壁までたどり着いた将校たちを出迎えたのは、これまた見たこともない、いびつなT字型の兵器の群れであった。横棒の片側には長い綱がつけられ、その先には船の碇くらいの大きさの、巨大な鉤爪がつけられていた。

 

「一体これは、どうやって使うのです―――」

 

「まあ、ひとつ御覧なされ。ほれ、おあつらえ向きの軍船が迫ってきておるだろう。あれが実験台じゃ」

 

 彼の言葉通り、ローマ軍の誇る五段層軍船の群れが、シラクサの海側の城壁に迫ってきつつあった。

 

 アルキメデスは、兵士に向かって手を挙げ、何かを放り投げるしぐさをする。その指示を待っていたかのように、綱で繋がれた鉤爪が、いくつも海に向かって放り投げられた。鉤爪のうちの一つが、ローマの軍船の中の一艘をとらえる。

 

「今じゃ。引けい!」

 

 シラクサ軍の人馬が、T字型の兵器につながっている綱を引く。滑車の回る軋んだ音とともに、鉤爪の付いた綱が引っ張り上げられ、ローマの軍船が大きくかしいだ。バランスを失った兵士が幾人も海中へ落ちていく。

 

「放てい!」

 

 アルキメデスの言葉通り、人馬が綱を放すと、鉤爪も海中に落ち、軍船は弾みで轟音を立てて転覆した。

 

「見事だ……」

 

 将校たちの感嘆の声も耳に入らない様子で、アルキメデスは視線を海の方へやり、自らが開発した兵器の活躍を見守っていた―――後に「アルキメデスの鉤爪」として伝説化される兵器であった。

 

 

 

 ローマ軍のもくろんだ紀元前二一三年中のシラクサ攻略は、一人の老人の頭脳のために、こうして失敗に終わったのである。「老いぼれ一人に振り回されるとは何事か」と、将軍マルケルスは嘆いたという。

 

 

 

 

 

 

 アルキメデスの新兵器によって、シラクサ軍の士気は大いに上がった。ローマ軍はなすすべなく次の年を迎え、戦線は完全に膠着したかに見えた。しかし、綻びは思わぬところから現れた。

 

 それは、アルテミス(ギリシアの神で、狩りの女神)の祭日のことであった。ギリシアの風習で、この日は町を挙げて祝い、泥酔するまで葡萄酒を飲むのである。シラクサ軍の兵士もまた、その誘惑には勝てなかった。結果、わずかな見張りの兵士を除いて、シラクサの街に住むほぼすべての住民と兵士が夜までに酔いつぶれた。シラクサ軍の捕虜からアルテミスの祭日のことを知ったマルケルスは、その日を絶好の機会と見た。そして、その日の深夜、精鋭一千の兵をもって奇襲攻撃をかけ、シチリア本土のシラクサ領を制圧したのである。

 

 シラクサの中枢はシチリア島本土にはなく、洋上の小島の中にある。故に、シチリア本土の領域を得ただけではシラクサを攻略したことにはならない。しかし、アルキメデスの兵器が、陸側の攻撃に対して無効になってしまったのは大きな痛手であった。

 

 

 

 マルケルスは、紀元前二一二年から二一一年の間の冬を無為には過ごさなかった。シラクサに蓄えられている莫大な兵糧が尽きるのを待つ気もなかった。シラクサ包囲を続けた冬の間、総攻撃の準備を着々と整えていたのである。

 

 紀元前二一一年春、ローマ軍による総攻撃が開始された。力攻めで押す伝統的なローマ軍の戦法の前に、シラクサは数日も持たなかった。

 

 

 

 戦争に負けた者の所有物は、勝者のものになるというのが、古代の戦争の掟である。将軍マルケルスは、兵士たちに三日間の略奪を許した。

 

 主権国家としてのシラクサ最後の日、アルキメデスは自室にこもり、彼のライフワークともいえる数学の研究にいそしんでいた。彼によって近似値が求められた円周率の精度を、更に上げようとしていたのである。

 

血の気の多いローマ兵が屋敷に乱入するのも時間の問題であった。残された時間が刻一刻と少なくなっていることは、彼も十分理解していた。彼はその時間を、最も精密にして美しい学問、数学の研究に捧げることに決めたのだった。

 

 扉を蹴破る音が、運命の時の訪れを告げた。シラクサ市内の最深部にまで達したローマ兵は、ついにアルキメデス邸にまで押し入ってきたのである。

 

「わしの図形に近づかないでくれ!」

 

 アルキメデスは顔をあげると、怖気づく様子も見せず、兵士たちに向かって一喝した。当然のように激高する兵士たちに対し、彼はこの世における最期の言葉を発した―――。

 

 

 

「砂の上に書かれた図形は蹂躙できても、わしの心にまで立ち入ることは出来ぬ。シラクサ以外のいかなる国家にも、わしは仕えぬぞ。もう一度言う。近づくな!」

 

 

 

 軍人でありながらギリシア文化に理解があり、シラクサの美術・工芸品を略奪から保護したローマの将軍マルケルスは、激怒した兵士によってアルキメデスが殺されてしまったことを、心から惜しんだという。

 

 享年は七十五歳であったと、ギリシアの歴史家ツェツェースは伝えている。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

塩野七生「ハンニバル戦記 ローマ人の物語Ⅱ」