ある巨匠の約束

 

三城 俊一

 

 

 

 

「久しぶりだね。気分の方はどうだい?」

 

 その男は、病室に入ってくると同時に、私に向かって声をかけた。理知的な感じと神経質そうな印象を同時に与える、長い顔と広い額。眉間にはいつも物憂げに皺が寄せられ、眼鏡の奥の細められた眼は、相対するものにどこか虚無的な印象を与える。彼を知らぬものが見たら、いささか尊大な感じを与えそうな声の調子と態度であった。しかし、この男―――グスタフ・マーラーに関しては、そうした尊大さは持って生まれた癖のようなものであり、本人を責めても仕方のない性質のものなのだということを、私はよく分かっていた。

 

「おかげさまでね、悪くはないよ」

 

 私の返事も、聞く人によっては皮肉っぽく聞こえる回答かもしれない。彼と私の関係だからこそ、こうしたやり取りも許されているのだろう。

 

「まさか、君が来てくれるとは思わなかったよ」

 

 私はベッドから半身を起し、ベッドわきの椅子を彼にすすめた。

 

 四方を白い壁でうがたれた、無彩色の病室。枕元のテーブルに置かれた季節の花だけが、辛うじてこの部屋に色彩を与えていたが、今ではもうしおれてしまった。静かではあるものの、この部屋の中だけ時間が止まってしまったかのような錯覚を覚える。この静止した時間を再び動かし、部屋に色彩を取り戻してくれるのが、時たま訪れる彼のような見舞客の存在であった。

 

「僕とて、血も涙もない男ではないからね」

 

 すすめられるまま椅子に腰かけたマーラーが、自嘲的な笑みを浮かべてやり返す。口角をほんの少しだけ、わざとらしく上げるという、独特の笑い方は、学生だった頃から変わっていない。

 

「君は今、相当忙しいんじゃないのかい。今はとにかく実績を積んで、楽友協会の石頭の爺どもも黙るようにさせないといけない時期だろう」

 

「え?ああ、確かにそうだがね」彼はなぜか、一瞬面喰ったような表情をしたが、すぐに例の奇妙な微笑を浮かべながら答えた。

 

「まったく暇がないというほどでもない。病に倒れた旧友を見舞うくらいの時間は作れるさ」

 

 ここで彼は言葉を切り、病室を眺めた。

 

「しかし、フーゴー、君も変わらないね。主にいささか口の悪いところが」

 

「その台詞、そのまま返させてもらうよ、グスタフ」

 

 二人の男の哄笑が、殺風景な病室に響き渡った―――

 

 

 

 私とマーラーは、かつてウィーン音楽院の同級生であった。今は、私は作曲家、マーラーは指揮者として、音楽家としての実績を積み上げようとしているところだ。

 

「だがねフーゴー、いくらなんでも口の悪さを君に指摘されるいわれはないよ。君が音楽院を追い出されたきっかけを思い出してみたまえ」

 

「あの台詞のことかい? あれは、事実を率直に述べたにすぎないよ」

 

「『こんなところでは覚えることより、忘れてしまうことの方が多い』―――だったかな。確かに教授連中は頭が古かったし、アカデミックに過ぎて退屈な授業も多かったがね、いくらなんでも教授に面と向かって言うことはないだろう」

 

「むしろ、俺は君の忍耐強さの方が意外だったね。旧時代の遺物のような教授どもには、君も腹に据えかねていると思っていたのに」

 

「確かに、僕も教授に反発を覚えたことは幾度となくあるがね、考えてもみたまえ。僕らの音楽家としての道のりを考える上で、ウィーン音楽院は決して外せない踏み台の一つだったんだから。僕に比べ、君はあまりにも忍耐が足りなかった。だからこんなに苦労する羽目になったんだよ」

 

「妙に説教臭いじゃないか、今日はどうしたんだ?」

 

 私の問いかけに、マーラーは一瞬ハッとした表情を見せた。すぐに平静ないつもの彼に戻ったが、私はその変化を見逃してはいなかった。常に自信にあふれている彼にしては、一瞬の変化とはいえ慌てたようなそぶりを見せるのは珍しい。先程もそうだったが、今日のマーラーの振る舞いには、どこか不自然なところがある気がする。何か私に隠しているのだろうか。それとも、何らかの悩み事が彼の頭の中を占拠してしまっているのだろうか? 内面においては芸術家らしく繊細な彼のことである。ありそうなことだ。私は話題を変えた。

 

「音楽院の頃が懐かしいな。憶えているかい? 君とルドルフとで下宿していた頃のこと―――」

 

 ルドルフとは、当時私とマーラーとともにウィーンの安下宿に住んでいた音楽院の仲間、ルドルフ・クルシシャノフスキーのことだ。

 

「当然さ。僕の外套をルドルフに失敬された恨みは忘れないね」

 

「あれは確か、君には大きすぎるサイズだったのだろう?」

 

「あれはね、父が僕の成長を見越して仕立て、送ってくれたんだ。それが大柄なルドルフにぴったりだったのがいけなかったな。無断で荷物を開けられたのが運の尽き、僕が気づいた時には事実上彼のものになっていた」

 

「だが」

 

私は笑いをこらえながら言った。

 

「君の父上が思ったほど、あれから成長しなかったじゃないか、グスタフ君」

 

「余計なお世話だ。それに、君には言われたくない」

 

 私が指摘できる義理ではないが、マーラーの背はあまり大きくない。知的な感じの風貌で女性受けも悪くない彼であるが、その身長はいささかコンプレックスの源になっているようだ。平素から気位の高い彼が子供のようにむきになるのがおかしくて、私はつい自分の身長を棚に上げて彼をからかってしまう。

 

「君ばかりが被害者面することもないぞ? 君が作曲コンクールに出す曲を徹夜で書いていた間、僕らがどうしていたか覚えているか?」

 

「ああ、あの時は僕を邪魔しないよう、二人にリングシュトラーセ(註 ウィーン中心部にある通り)のベンチで寝てもらったんだっけ。あの時は助かったよ」

 

「夜明け前の、あの凍えるような寒さは忘れられないね。まったく、現金なものだ。共同生活なんだからすべてお互い様だろうに」

 

 昔話に花が咲くにつれて、二人の笑い声も次第に遠慮がなくなっていく。

 

「しかし、折角私の両親が送ってくれた食料を君とルドルフで食べ尽くしてしまうのには閉口したぞ」

 

「もう昔のことは責めないでくれよ。……そういえば、下宿生活の幕切れも傑作だったな」

 

「ああ、ちょうどその頃ワーグナーの《神々の黄昏》を知って―――」

 

「三人が三人とも熱烈なワグネリアン(註 ワーグナー信奉者)だったものだから、夜中に皆でグンター、ブリュンヒルデ、ハーゲンの三重唱(トリオ)を歌い出したら―――」

 

「下宿のおかみさんをついに怒らせて、その日限りで叩き出されてしまったんだっけ」

 

「学生の時分は、随分馬鹿なことをしたものだな。今にして思えば、そこらの喜歌劇(オペレッタ)以上の結末だったな」

 

 懐かしい話題に盛り上がっていた私は、ひどく気分が舞い上がっていたのか、いつになく話しが止まらなくなっている。

 

「そういえば、件のルドルフは今頃どうしているのだろう」

 

「ルドルフなら、今―――」

 

 マーラーが一度答えかけ、一瞬目を伏せる。観察力ある者相手ならばごまかしきれない、さっきと同様の不可解なしぐさだ。

 

「どうして、いるんだろうな。きっと忙しく立ち回っているだろう」

 

 話題が途切れ、沈黙がしばし病室を支配した。この一瞬の停滞が、私の高ぶった神経を急速に冷却した。私はひとりごつ様に言った。

 

「病気さえなければ、俺も今頃は君のように音楽家としてデビューしていたろうにな。一刻も早く、こんなところは飛び出してしまいたいよ」

 

「そういういい方はやめたまえ」

 

 いささか沈痛な表情を垣間見せながら、マーラーが口を開く。

 

 私は自覚している。私は彼に甘えているのだ。普段は尊大で短気だが、人を思いやる心は人並み以上に持っている彼から、慰めないし激励の言葉を引き出そうとしているのだ。

 

「僕たちはまだ若い。音楽家としての道のりも始まったばかりさ。気長に病気を治すことを考えるんだ」

 

 結局マーラーは、私の期待した通りの言葉を、一語一語力を込めながら言ってくれた。しかし、その口調はなぜか、相手というより自分に言い聞かせているように聞こえた―――

 

 

 

 ややあって、私は切り出した。

 

「グスタフ、俺の予想では―――君は将来、間違いなく大物になるよ」

 

「……」

 

 マーラーは、微笑を絶やさないものの、眉間に一層のしわを寄せ、いささか困惑したような色を見せた。毒舌で鳴らしている私が、急に相手を持ち上げるようなことを言い出したのだから当然だろう。

 

「それも並みの大物じゃない。楽壇史に残るか、それ以上の名声を、君は手に入れるだろう。悔しいが、君の才能は、音楽院時代から際立っていた。それは君自身がよく分かっているはずだ」

 

 なんとも名状しがたい表情をその長い顔に浮かべたまま、彼は黙っている。それは戸惑いなのか、憐憫なのか、哀しみなのか、私には判別できなかった。

 

「今、俺は四幕のオペラを構想しているんだ。もし、君がウィーンで―――いや、オーストリア中で知らないものがいないほどの名声を手に入れたら、このオペラ―――《コレヒドール(註 「代官」の意)》を君の指揮で上演すると―――約束してくれ」

 

 

 

 先ほどよりも重い沈黙が場に訪れた。

 

 例の不可思議な表情を張りつかせて黙っていたマーラーは、やがて吹っ切れたような笑顔を浮かべ、答えた―――

 

「分かった。いつになるかは分からないが、約束しよう」

 

 

 

 

「お忙しい中、ご足労ありがとうございます。こちらへどうぞ」

 

 病室から出てきたマーラーを出迎え応接間に向かい入れたのは、医師のスヴェートリン博士であった。マーラーはすすめられるままソファに腰掛けながら答える。

 

「いえ、私とて血も涙もない人間ではありません。私にも責任の一端があります。彼の狂気のきっかけは、私が彼のオペラ《コレヒドール》を上演するという約束を違えてしまったことなのですから。彼の作品は、一部に魅力的な旋律はあるものの、全体的に荒削りに過ぎた。それに当時の彼は、いくつかの歌曲が評価されていたもののまだまだ無名で、宮廷歌劇場で上演するのは困難でした。歌劇場監督としての私の判断は間違っていなかったと思うが―――」

 

「しかし、そのことを発端として、彼は完全に精神の平衡を失い、自分が宮廷歌劇場監督であるという妄想を抱くようになってしまったのです。ヴェルナー氏やケッヘルト夫妻ら、友人たちの支援のおかげで、現在はだいぶ回復しましたが、元通りの社会的生活を送れるまでには至っていません」

 

沈痛な表情を崩さないまま、マーラーは言った。

 

「今日の彼は、自分がたいしたことのない病気で、しかも私たちがまだ駆け出しの音楽家だと思い込んでいるようでした。彼の頭の中でだけ、時間が十数年戻ってしまっているのです」

 

「おそらく、彼自身が最も希望に満ちていた時代を思い返しているのでしょう。深い絶望に沈んでいた彼の、ある種の防衛反応かもしれません」

 

「昔に戻ったようで懐かしくはあったが、話を合わせ続けるのも簡単ではありませんでしたよ。つい、学友のクルシシャノフスキーがワイマール宮廷劇場の楽長になったなどと、口を滑らせそうになりました」

 

「大切な心がけですな。ああいった症状には、患者に話を合わせ、決して否認しないのが肝要なのです」

 

「彼は―――」

 

 マーラーが遠い目をしながら、呻くような声で言った。

 

「私が将来大物になる、と言っていました」

 

「ほう、そうですか」

 

 スヴェートリン医師は笑う。

 

「その『予言』はぴったり的中していますな! なにせ貴方はウィーン宮廷歌劇場監督、ヨーロッパ音楽界の頂点に立っているのですからな!」

 

 マーラーはしかし、その追従に近い医師の台詞には答えなかった。

 

「《コレヒドール》をどうにかして上演できないものか―――」

 

「残念ながら、彼の作品が上演できたとしても、彼はもはやそのことを認知することすらできないでしょう。今日の状態はかなり良好ですが、遠からず譫妄、幻覚状態に戻ってしまう可能性が高いです」

 

「彼と、約束したのですよ」

 

 マーラーは静かに言った。穏やかではあるが、断固とした意志の強さを感じさせる口調であった。

 

「フーゴーが―――ヴォルフがいかなる精神状態であろうとも、私は彼と約束したのです。そして、私はその約束を二度も違えるわけにはいかないのです。」

 

 

 

 

 

 

一九〇三年二月二十二日 フーゴー・ヴォルフ、精神病院にて死去。享年四三。

 

一九〇四年二月十八日 ヴォルフの追悼公演にて、遺作のオペラ《コレヒドール》、マーラーの指揮によって上演される。

 

 

 

 

 

 

 

(二〇一一.九.一九)

 

 

 

参考文献

 

桜井翔『マーラー』 音楽之友社

 

エリック・ヴェルバ著 佐藤牧夫・朝妻玲子共訳『フーゴー・ヴォルフ評伝』 音楽之友社

 

渡辺護『ウィーン音楽文化史』 音楽之友社